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番外編 黒き姫君

 

 

 イリン国の第三王女、イリネー姫は、かつて絶世の美女だと謳われたイリン国王妃の美しさを髪と目の色を含めて、四人の姉妹の中で一番多く受け継いだ美女だった。

 その波打つ赤みがかった金髪は眩しい限りに光り輝き、グリーンの瞳は柔和な光をいつも湛えていた。そして、澄み渡る青い空色のドレスを着て、常に微笑んでいる姫君だった。

 しかし、彼女の長かった髪は、今や肩よりも上の位置にある。そして、トレードマークだった空色のドレスは消え、イリネーは常に黒か紺色のドレスを着るようになった。彼女の明るい笑みは消え、悲しみの色がある笑みに取って代わってしまった。

      

一体、彼女の身に、何が起こったのか?

青き姫君が、黒き姫君に変わってしまったのはなぜか?

その答えは、一年前の長雨の時にある。

      

イリネーが明るかった頃。イリネーの隣には、いつもベンジャミンがいた。ベンジャミンは、公爵家のご子息で、イリネーのフィアンセだった。二人は、イリネーの五歳の誕生パーティーで初めて会って以来、機会があればいつも一緒にいた。イリネーは三つ年上のベンジャミンを兄のように慕っていたし、ベンジャミンもイリネーの事を実の妹のように可愛がっていた。

 イリネーに乗馬のコツを教えたのも、このベンジャミンだった。実の兄のトムはすぐ上の姉ばかりにかまっていたので、イリネーは自然と兄の親友だったベンジャミンと一緒にいた。二人はまるで、実の兄妹のようだった。

 二人の関係に変化が現れたのは、イリネーが十三になった年だった。

 イリネーの胸は急に肉がつき、腰が細くなった。それと同時に月のものが始まり、胸の内にモヤモヤとしたものが生まれてきた。そして、ベンジャミンとどう接すればいいのかわからなくなってしまった。イリネーはベンジャミンが近寄ると、逃げるようになった。なぜかわからないが、気が付いたら足が動いているのだ。ベンジャミンを見ると、息苦しかった。

 ある晴れた日だった。学園の広い庭を散策していると、野原の真ん中で、ベンジャミンが寝転がっていた。イリネーが恐る恐る近寄ると、ベンジャミンは眠っていた。イリネーは一時考えた後、ちょこんとベンジャミンの隣に座った。イリネーはベンジャミンの顔をしげしげと見る。こうやってベンジャミンの顔を見るのは、何ヶ月ぶりだろう。ひどく久し振りな気がした。少しクセのある黒い巻き毛。黒々とした太い眉。高い鼻に、長い睫毛。その、小麦色の瞼の下には、イリネーの好きな空色の瞳が隠されている。イリネーは無意識に手を伸ばす。昔、よくしてもらったように、ベンジャミンの頭を撫でた。

―なんて、綺麗な人なんでしょう・・・。まるで、古代の彫刻から抜け出したような均整のとれた体・・・。―

 イリネーは名残惜しむように、ゆっくりと手を離す。と、その時、長い睫毛が動く。イリネーはギョッとして腕を仕舞おうとしたが、それは叶わなかった。ガッチリと掴まれている。そして、ベンジャミンの空色の瞳が、イリネーを見つめていた。

 「イリネー?」

 ベンジャミンの美しい声が、イリネーの名を呼ぶ。イリネーの胸は、それだけで高鳴った。

 「イリネー、どうしたんだい?」

 「あっ・・・。その・・・。私・・・行かなくちゃ。先生が呼んでいるわ。」イリネーは真っ赤になって言う。しかし、ベンジャミンは腕を離してくれなかった。

 「イリネー、会いたかったよ。最近、避けられてる気がしたから、会えてよかったよ。」ベンジャミンはニコリと言う。

 「あの・・・その・・・私も・・・。」

 イリネーは耳の先まで真っ赤にして、小声で言う。

 そんなイリネーの様子を見て、ベンジャミンはクスリと笑った。

 「相変わらず可愛いなあ。イリネーは。」そう言うと、ベンジャミンはギュッとイリネーを抱きしめる。

 イリネーの心臓は、階段を全速力で駆け上ったかのようにバクバクと音を立てている。顔が、真っ赤なトマトのように赤くなった。

 「あの・・・ベンジャミン・・・?」イリネーは恐る恐る押すが、ベンジャミンはますます強く、イリネーを抱きしめた。

 「・・・イリネー、愛してるよ・・・。」ベンジャミンはそっと、イリネーの耳元で囁く。

 イリネーは唐突の告白に動きを止める。ゆっくりと顔を上げると、真剣な表情のベンジャミンと目が合った。

 「ベンジャ・・・ミン・・・?」

 「イリネー・・・、僕のお嫁さんになってくれないか?」

 イリネーの心の琴線が震える。イリネーは胸が一杯で張り裂けそうになった。

 「私で・・・いいの・・・?」

 「君だから、いいんだよ。僕のお姫様。」ベンジャミンは優しく微笑む。

 その瞬間、イリネーは思いっきりベンジャミンを抱き返した。

 「私も、愛してるわ!」イリネーの顔は幸せの笑みで一杯だった。

       

 一ヵ月後、二人は正式に婚約した。本人たちはまるで気付いていなかったが、周囲の人たちは結ばれるべくして結ばれたと考えていた。兄のトム曰く、「ここまで時間がかかるなんて、考えてもいなかった。」そうだ。「あいつも、結構臆病なんだな・・・。」と、トムは小さく呟いていた。

 二人は婚約以来、今まで以上に一緒にいるようになった。そして、誰もが、そんな二人を微笑ましげに眺めていた。

      

 しかし、二人の蜜月は、あまりに短かった。二年後の、春の長雨の時期に、ベンジャミンが流行り病に罹り、倒れてしまったのだ。医師や、イリネーによる献身的な看病にも関わらず、ベンジャミンは一週間後に亡くなった。

 冷たい棺に身を寄せて、イリネーは一週間泣き続けた。ベンジャミンを埋葬しに来た人々を追い返し、なおも棺から離れず泣き通したが、ベンジャミンの両親に乞われ、ようやくイリネーはベンジャミンの棺から離れ、彼を埋葬する事を了承した。

       

 イリネーは埋葬の日、初めて黒いドレスに袖を通した。それまでは、ベンジャミンが亡くなってからもずっと、いつもの空色のドレスを着ていたのだ。

 黒いドレスを着ると、荒れていた心が不思議と落ち着き、自分が何をすれば良いのかイリネーは知った。

 「ベンジャミン・・・。」

 イリネーはベンジャミンに貰った指輪をソッと撫でて呟く。それだけで、涙が溢れてきた。

 イリネーはハンカチがビショビショになるまで泣くと、涙を拭い、引き出しの奥から裁縫用の鋏を取り出した。

 鏡を見れば、涙に濡れた少女がいる。母親譲りの赤みを帯びた金の巻き毛が、結われずにただ背を流れていた。

 「さあ、イリネー・・・。泣くのはこれでお終いよ。ベンジャミンを失った悲しみを髪の毛に込め、彼への愛だけを抱き締めて生きるのよ。」

 イリネーは自分を奮い立たせるように言うと、鋏をキレイな巻き毛に当て、バッサリと切った。美しい赤みがかった金の巻き毛が、クルクルと床に落ちる。

 イリネーの髪は、肩にも届かないくらい短くなっていた。

       

 イリネーが聖堂に入ると、集まった人々は彼女の姿を見て驚きの声を上げたが、彼女の母親とすぐ上の姉だけは悲しそうに微笑んだだけだった。

 イリネーは一同の反応を無視し、花束を持って、愛する人の下へ向かう。

 「ベンジャミン、愛してるわ。」

 イリネーはベンジャミンへ最後の愛の告白をし、棺に白百合の花束を置いた。花束を束ねているのは、イリネーの切り落とした巻き毛だった。

      

 それからと言うもの、彼女は髪が伸びるとすぐに切り、肩より上の長さを保っている。そして、喪服を着続けた。ベンジャミンが亡くなってから、一年が経ったが、イリネーは未だにベンジャミンを想い、喪服を着続けている。彼女の笑顔を彩るのは、悲しみの色。

 イリネー第三王女が、再びあの空色のドレスに袖を通す日が来るのかは、誰にもわからない。

   


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